高校に入るまで
私は現在、高校2年生。
高校に入るまでに、色々なことがありました。
この記事では、そのことについてお話します。
小学校3年生 不登校になる。
小学校3年生になってしばらく経つと、私は学校に行けなくなりました。
理由は担任の先生でした。
その人は言い方が嫌味だらけの人で、会うだけで過呼吸を起こしかけるレベルで苦手でした。
私の両親は喫煙者。そうなると臭いはついてしまうもの。ですが、私は煙草の匂いに疎く、それに気づいていませんでした。
その先生は元喫煙者で、煙草を辞めたことを誇っている人でした。煙草臭かった私を嫌いになるのも無理もないです。(それに気づけなかった自分も悪いと思ってます)
私が宿題のワークを提出すると、「煙草臭いワークなんて見てられない」と言われ、連絡帳を提出すると、「煙草臭くて見る気にもならない」と言われました。
そして、そのことを当時の教頭先生に言いに行ったことがありました。
教頭先生は、私に親身になってくれて、私が少しでも学校に行けるように、保健室登校という手段を用意してくれました。
不登校と言いながらも、何とか保健室には通うことが出来ました。
小学校4年生 史上最大のトラウマ
今でもよく覚えているそのトラウマは、私の中で最も人生に影響を与えたものであると言えます。
それは、「ストーカー」でした。
私には年後の姉がいます。姉とは仲が良く、どこに行くにもくっつきまくっていました。
姉が遊ぶ相手の名前も、大体知っていました。
その当時、姉がよく遊んでいた子は、姉を蔑んでいました。
私はそれを察していたのかどうかは定かではありませんが、何故か守らなければという使命感にとりつかれ、絶対死守のもと、ついていっていました。
姉が遊ぶ相手の子も、いつも1人という訳ではなく、その子の兄もいました。
その人は私よりも3つ上の人ということ、クマが酷い人であるということは、はっきりと覚えています。
そして、その人はとんでもなく性格に難がある人であり、姉はカツアゲされていました。
私は気が強いタイプだったので、そういう被害はなかったのですが、ある日服を脱がされそうになったことはありました。
私は父親大好きっ子だったので、そのときは昔父に教わった護身術を使って逃げたことだけ覚えています。
それで関係が終わればよかったのですが…
ある日、友達と学校終わり帰宅しようと歩いていると、校門にその人がいました。
私は逃げるように足早に去ろうとしたのですが…
彼はぴったりと私にくっつくようについてきたのです。
あまりの怖さに、そのとき何をしたかはあまり覚えていませんが、家に着いた瞬間に崩れ落ちるように泣いた記憶はあります。
それから私は、あまり男子を信用しなくなりました。
この経験のおかげで警戒心も身についたので、悪いことだらけではないと信じています。
中学校 依存の恐ろしさ
女の子は特に気持ちがわかると思いますが、トイレに行こうとすると友達がついてきたり、移動教室で移動しようとすると無言でついてきたり…友達ならそういうのも自然と許される関係になると思います。ですが、私はそういう「依存」のような行為が苦手です。
苦手になったのは、中学1年生のときでした。
詳細は省きますが、恋愛トラブルに巻き込まれて、その時に初めて親友に依存されていると実感してしまったことでした。
「依存は、する側もされる側も被害者になるし、加害者にもなる」
と、ちょっと偏った思考を持ち始めました。
今でもこの思考が変わった訳ではありません。
1年生の時は、再び不登校になりました。
当時の担任の先生は、優しい数学の女性の先生でした。
可愛らしいその人を、私は人として尊敬してる部分もありました。
その先生に慰められながら、私は進級しました。
その時は、いわゆるコロナによるパンデミックのときでした。
始業式の日、久しぶりに教室に入ることが出来ました。
足が震え、視界も歪み、前に進むことも難しい…そんな私を支えてくれたのは、後に3年生の時の担任もやってくださる、技術の男性の先生でした。
新任で、私よりも不安そうなその人を見て、安心感を覚えました。
始業式が終わり、私とその男の先生と1年生の時の担任の先生でお話をしました。
2人とも、私のことを考えてくれていました。
どうすれば私がのびのびと学校生活を送れるのか…
お2人と、幼馴染のおかげで、私は通常通り登校できるようになりました。
そこで、新しく仲良くなった友達とも出会えました。
ですが、平穏だけで終わらないのが人生です。
仲良くなれた友達は、私とは少し違い、「1年生の時にトラブルを抱えながらも、不登校にはならずに学校生活を送れた恋多き子」でした。
そもそも色々私とは違うその子は、私を頼ってくれました。同時に、依存されていることにも気づき始めました。
依存から逃げ出すことを考えていたある日、衝撃的なことをその子に言われました。
「不登校になればよかった」
その一言で、私はこの子のそばにはいてはいけないと思ってしまいました。
不登校は、そんな風に思われる…
もちろん、良いふうに思われるとは思っていませんでしたが、そんな風に言われると、何とも言えない感情になりました。
ですがその子はその発言を悪いとは思っておらず、依存され続ける日々…
限界を感じ、私はまた不登校になってしまいました。
今までの不登校は、友達を巻き込むことを一切しませんでした。
ですが、今回は違いました。
3年生の夏、不登校になったのは私だけではなく、なんと不登校を羨ましがっていたその子もなっていたのです。
理由は周りの子から聞きましたが、支えがなくて病んじゃったとか、色々でした。
さっきも言いましたが、依存はする側もされる側もデメリットしかないものです。
依存によって、私だけではなくその子の人生までも…狂ってしまったと思うと…
学校に行く気持ちなんてどこにもなかったのです。
ですが、高校には行きたいなと漠然と考えていました。
姉は通信制。私も通信制になっちゃうのかなぁ…機械苦手だし…なんて考えていました。
そんなある日、担任と学年主任からある提案がされました。
「この高校は、女子校で不登校の子も単願なら入学させてもらえるところだよ」
乗り物酔いが酷い私は、なるべく家から近い学校が良かったのもあり、徒歩15分ほどで行けるその高校に即決しました。
過去のトラウマを乗り越え、また一からやるには、その高校に…そう思いました。
高校1年生1学期 まさかの才能開花
新たな学校は少人数。
1学年40人未満の小さな学校でした。
しかし女子校なので、日常生活がとても気楽でした。
私の代からiPadが導入され不安でしたが、担任が情報科の先生だったので、一安心しました。
人見知りなので自分から話しかけることは一切しませんでしたが、自然と友達はできました。
学校の先生も、新任で入ってきた化学の先生とよく話すようになり、楽しい生活が送れていました。
授業が本格的に始まったある日、私は1人の数学の先生にこう言われました。
「お嬢さん、理系得意なの?」
頭に?が100個ぐらい浮かびました。
私は中学時代、理系はてんでダメでした。
理科は23点、数学は40点とか当たり前でした。
唯一化学の分野のテストは高得点とれて超ラッキーぐらいの感じだったので、この先生頭狂ってんなとか思ってました。
そう思う決定的な理由もありました。
中学時代、塾の先生に国語の才能があるとか凄い褒められてました。
中学の模試で80点は超えるかな?ぐらいの点数だったので、自分でも国語は得意だと思ってました。
ただ、私は高校に入って初めての定期試験で気づきました。
その時の成績がこちら⤵︎ ︎
現代の国語 84
言語文化 88
数学I 100
数学A 100
地理総合 96
公共 100
科学と人間生活 99
コミュニケーション英語 92
…私理系の才能あるじゃん!
あとから自分で分析して気づきましたが、
中学の時は勉強しないのが当たり前のテストだったので、勉強しなくても高得点とれちゃう国語系が1番高くなるのはまぁ当たり前なんです。
高校に入って、基礎を学んでちゃんと復習するようにしたら、あら不思議。
あんなに苦手だった数学のテストが余裕。余裕すぎる。
自分でもこんなにできると思ってなかったので、採点ミスを探したぐらいです。
中学までの私は何も知らなかったひとつの才能です。
ですが皆様に勘違いしないで欲しいのは、私は決して数学は「好き」とかそういうのではなく、「得意」に近いものです。
私が高校で好きになったのは、「化学」でした。
先程も少し触れましたが、中学の化学の分野でたまたま高得点をとったことがあり、そのことを仲良しの化学の先生に話しました。
すると、化学の先生は私に化学の面白い話をしてくれました。
1年生の時は化学基礎を学んでいなかったので、私は興味が湧きまくりました。
個別で化学のことを沢山教わり、化学をもっともっと勉強したいと思うようになりました。
…と、このように中学の時から一転して輝かしく勉強に目覚める私ですが、通ってる学校の偏差値は40もないので、勉強しても底辺のトップに君臨するだけです。
高校1年生2学期 嫉妬
私は今まで話してるように、中学時代は地獄のような日々を送ってきたので、嫉妬されることはほとんどありませんでした。
ですが、高校に入ると成績トップという肩書きがついてくるので、特に隣のクラスの視線が怖い。
2学期に入ると、英語のスピーチコンテストに出たり、それを文化祭で披露したり…と、1年生の時に中でもかなり目立ってしまったので、自分でも立場の在り方に困りまくっていました。
隣のクラスの子達には「完璧主義者」と思われていたらしく、それはそれは恐れられていたそうです。
事実、委員会の仕事で隣のクラスの子に話しかけただけで逃げられることもありました。悲しかった。
そんなとき、私を慰めてくれたのは同じクラスの子達でした。
私たちのクラスは超賑やかな子達オールスターみたいなクラスだったので、常にうるさい。
だけど、静かにしたい子を尊重したり、勉強を真面目に取り組む子を尊重したり…と、優しい子たちばかりでした。
なので、私がどんだけ目立ちまくっても、応援してくれるし慰めてくれるし、支えてくれる…本当に仲間のような存在でした。
…一部を除いて。
同じクラスの子に、英語の先生になりたいと言っている子がいました。
その子は生徒会を補助する委員会に入っていたので、リーダー系の仕事をよくやっていました。
その子は成績はクラスでも3番目。それぐらいなら特に害はないのですが、その子はなんと化学の先生にガチ恋していました。
ここまで読んでいただけていればそれがどれだけ恐ろしいかわかると思います。
私は化学の先生と仲良くさせてもらっていたので、まぁすごーい嫉妬をされていました。
私はその子が恋してるのを知ってるから仲良くしてるとかではまっっっったく無くて、話しやすいから仲良くしていただけだったので、とても怖かったです。
それもあって、私が少しでも成績トップだと化学の先生が褒めようもんなら恐ろしい。
睨む、機嫌悪くなる、陰口叩くの三拍子。
耐えられなくなって、担任に言いました。
担任は愚痴もなんでも聞いてくれるタイプなのでとても助かりました。
そして、嫉妬の2学期!で終わればいいのですが、それ以外にもあったので、それはまた別の機会に…
と、その嫉妬と別のトラブルが重なり、ついに私は起立性調節障害が見つかり…!となるわけです。
ここまで長文を読んで頂きありがとうございました…!